盛岡城(20241004)

城の記

2024.10.04 その2

岩手ツアー1日目。早めに宿のある盛岡市内に戻ってきましたので盛岡城行ってきました。

盛岡城

盛岡城は、南部氏によって築城されました。
公式サイトによると以下の説明があります。
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南部氏(なんぶし)は、甲斐源氏(かいげんじ)の一族でしたが、南北朝時代のころより糠部(ぬかのぶ)(青森県三戸郡・八戸市周辺)に基盤をおき、室町・戦国時代にはしだいに勢力をのばして、奥州(おうしゅう)北部の有力大名に成長します。
1588年(天正16年)、南部信直(なんぶのぶなお)(初代盛岡藩主)は斯波氏(しばし)を滅ぼし、1590年(天正18年)には豊臣秀吉(とよとみひでよし)から、南部七郡の領有を認められます。翌1591年(天正19年)、秀吉の重臣浅野長政(あさのながまさ)の助言により、信直は三戸(さんのへ)から不来方(こずかた)に居城の移転を決定。1597年(慶長2年)には、嫡子(ちゃくし)の利直(としなお)(2代盛岡藩主)を総奉行(そうぶぎょう)に鋤(すき)(鍬(くわ))初(はじめ)が行われたと伝えられ、翌1598年(慶長3年)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。
この地は、旧北上川と中津川の合流点の丘陵で、かつて南部氏の家臣福士氏(ふくしし)の不来方城(こずかたじょう)(淡路館(あわじだて)・慶善館(けいぜんだて))が存在した場所です。ここに、新たな縄張(なわばり)で石垣を巡らし、本丸・ニの九・三の丸を築きました。また、内丸から本町方面、中津川対岸の内加賀野・紺屋町・肴町・穀町方面にも、外曲輪(そとくるわ)や総構(そうがまえ)(遠曲輪(とおぐるわ))の堀を巡らし、さらに1609年(慶長14年)から1612年(慶長17年)にかけて中津川両岸が上の橋・中の橋・上の橋で結ばれ、城下町の建設と整備が進められました。以来盛岡は、江戸時代を通じて盛岡藩の中心として栄え、現在の盛岡市へと引き継がれます。
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桜山神社




お城の完成は1600年以降で戦の経験をしたお城ではないですが(お城はありませんが)石垣はしっかりしており広い境内で立派なお城であったことをうかがえます。
名城百選51城訪問達成です。

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